人気ブログランキング | 話題のタグを見る

にほんしゅのせかい 言いたい放題


by sasatatsu

辛口 生を語る  3

「辛口 生」の続きである。ここからは「生」についてである。居酒屋でのオーダーの定番に「ナマ下さい」ってのがある。最近の三鶏のCMでは『うちの生はそんな尻軽じゃあないぜ』みたいなイメージで来る。当方はこれを藪睨みしながら、『何ほざく、偽生め』に続いて心の中で『生は危ないぜ、オカモト理研ゴム』

と高田渡の詩を。高田渡の行が理解できたあなた、我が同士だ。

話が逸れそうなので戻す。偽生である。日本酒で「生」と言う時は『火入れ処理無し』が一般的である。超大手の場合ミクロフィルターを通して酵母を除去するのか。酵母酵素の加熱による失活処理の無い事を「生」と称しているだけである。瓶や缶についている「生」表示の下に、細かい文字で「非加熱酒」と印刷されている。虚偽表示では無いと言いたいのだろう。まぁ上げ底のオッパイの類として嗤える。ビール醸造の詳細は知らないが出来立ての若酒は一定時間の熟成で香味を整える。この過程をラガーと呼ぶ。この期間中に麦酒の発酵がさらに進みバランスを崩さない様に酵母の活性を無くす。麦酒の場合はこの段階で既に酵素は失活しているんだっけか、多分そうだ。

マイクロブリュウワリと併設レストランで短期日で売り切れる様な環境なら「本生・LIVE」でも商品化できる。長期間の保存を考えなくてもよいからだ。

話は変わるがLIVEビールは味もさることながら整腸作用が良く効く。思うにビール酵母が腸に良いのだろう。それはさておいて「生」についてである。

当方の記憶に間違いがなけば、一般市販麦酒で最初に「生」をやったのはSDで一世を風靡?する前の「朝日麦酒」ではなかったか。当時の麦酒界のガリバーたるキリンはラガーが大前提で「生」への意識は有ったのかどうか。と書いている内に、フウテンの寅のリバイバル放送の食卓シーンを思い出した。サッポロビールのラガーが普通に卓上に有った。恐らく40年程前の一般市販麦酒は加熱処理のラガーが「当たり前・デフォ」だった。この項を書くにあたり、この国の「生ビール」について種々調べた。その結果、生ビールについての思考が纏まらない訳が判った。麦酒の「生」についての定義が不安定なのだ。原因は大手メーカーが自社製品の「生」イメージを有利に運ぼうと、裏からあれこれ工作したのだろう。単純に考えて「LIVE」と「NON LIVE」に分ければいいのだが、議論を見る限り加熱処理と非加熱処理の部分にメーカーが「価値観」を持っている様だ。

SDを興した「中興の祖」と評される樋口廣太郎が社長時代に麒麟ラガーを評して「燗冷まし」と蔑む発言を公にした。これに対してキリンビール側は有効な反論をしないどころかラガーを「生」にしてしまった。この段階で麒麟ラガーの敗退が決まった。醸造酒のパストライズ処理を「燗冷まし」と蔑む発言に日本酒業界もワイン業界も声を大きく反論しなかった。現在でも多くの一般市販清酒ワインは樋口の言う所の「燗冷まし」である。麦酒についての経験が無いので正確ではないが、清酒に関しては経験上本生より火入れ処理済(方法に由るが)の方が飲んで美味い。この感応は化学的にも一定の分析結果を持つ。本生酒とそれの瓶燗一回火入れとを3か月熟成させた。アミノ酸の量が火入れ酒の方が本生よりも多かった。酵素酵母の活性の或る酒より加熱により酵母酵素が失活した火入れ酒の方がアミノ酸を多く生成する事実が裏付けられた。感応としては味の奥行が出る、が当方の経験である。

この事実を同じ醸造酒である麦酒に類推してみるとどうなる。先ず酵母の失活方法において濾過と言う単純な力学作用と加熱処理という蛋白質の熱変性と言う化学的作用の二つを同列には置けない。清酒の生酒と瓶燗火入れ酒との比較事例の化学的分析や自己体験からして、醸造酒の加熱処理(パストライジング)を『燗冷まし』と揶揄する愚かさ。その張本人が麦酒メーカーの社長且つ「中興の祖」と褒められる現実。もっと情けない事には多くの醸造酒メーカーが反論しなかった事実である。敗戦以降の日本人の特技としての「強い者に靡く」現象である。

非加熱処理をして非難する訳ではない。商品市場における合理性はある。ただし、これを「生」と称し、お墨付きを与える似非構造は如何なものか。

歴史的に清酒文化を顧みる。冷蔵庫の無い時代の江戸時代である。新酒より熟成古酒の方が高く売られた。これを支える技術が「煮酒」である。俳句の季語で初夏を象徴する。清酒の風味保持の為に一定の加熱処理が季語にまでなる程技術として残っていた。ワインも清酒も「生」が麦酒程に市場において一般的では無い。ワインに至っては国産ワインの非加熱処理は当方の知る限り山形のタケダワイナリー位だ。外国産に至っては耳にした事も無い。原因は酒質の問題に本質が在ろうが、外国では自家消費する限り自家醸造が合法である事が大きいのでは。ワインはブドウ果汁を素人が絞ってそれを放置すれば冷涼な環境なら勝手にワインになる。ワイン自家醸造は清酒と比べて比較的安全に「湧く」。現場を見れば生ワインは各家の御勝手に直結した存在である。敢えて買う必要はない。

米由来の濁酒は「足が速い」ゆえ飲み頃期間は短い。結果火入れした方が長持ちする。

これ等の事情から醸造酒の本生の市場性が広がらないのだろう。こうして観ると、麦酒の「LIVE」が一般市場で普通に流通するのは限定的とならざるを得ない。にも拘らず「生」を堂々と謳いかつ火入れを「燗冷まし」と堕とし込んでシェアを競う。

「目の前を疑え」は現代生活に必須の生活態度ではなかろうか。

追伸

ビールの「生」でもっと検索すると最近の一般市場製品に結構な数で「生」表示の無い製品が有る事が判った。この辺りの事情に興味あるが守備範囲を超える。

CMがある種のお呪いだと言いたかった。


# by sasatatsu | 2025-03-24 15:42 | 酒の味 | Comments(0)

辛口 生 をかたるの2

辛口 生のCMに改めて頭に来た。この数か月打てばカランコロンと空しく響く頭の中を巡っていた話題を吐出している。嘘も百篇言えば真実になる。これを当方は勝手に「ゲッペルス効果」と呼んでいる。SDのCMにそれを観た。40年も続くCMを前にして何を今更なのだが、最近のTVCMと比べてSDのそれの出来が良すぎてと言うか最近のCMの出来が悪すぎるゆえSDのそれが目立ち改めて考えてしまった、が事実に近い。

で、辛口の続きだ。平成の一桁年前半の頃、駆け出し地酒屋として興味半分に「越寒」を試した。淡麗辛口の越後酒の代表だ。今でも忘れないが『これの何処が辛口やねん、芳醇甘口やんけ。』このインプレの正確さというか「越寒」の不動の風合いは「淡辛」では無い。

ではなぜにして1968年頃「淡辛」の評価が世間で受け入れられたのか。答えは「越寒」というか醸造元の石本酒造が真っ当な酒造りをしたからである。良い米を普通より磨き程々のアル添と糖類添加無し酸味料もアミノ酸も不使用もしくは他所に比べて非常に少なかったのだろう。というあいまいな記述なのは普通に検索したのでは具体的な記録が出てこないのだ。敗戦後つい最近までの日本酒醸造に米・米麹・水と無関係の蒸留アルコール、無水ブドウ糖、酸味料アミノ酸などで合成した「調味液」と称する似非清酒が多く使われた歴史的事実なんぞは無かったことにしたい。業界もそれを指導する国税当局も同様だ。歴史的事実を無視してなかった事にする我が国の伝統芸である。吐き気を催す。どの面下げて「酒の風合」を解説できるのだろう。この行は書いてはいけないのだろうね。

1968年頃の越寒が淡辛と評されたのは圧倒的多数の他所の蔵の酒が「砂糖水」だったから、なんてチコちゃん風に書いてみた。どれ位の砂糖水かだが、前夜の宴会の徳利をかたすのを忘れると徳利が水飴で机に張り付いたのだ。

越寒の淡辛が世間で高評価されたのは「辛かった」のでは無く、当たり前に有るべき清酒の風合いだったからだ。「辛口」が肯定的に使われた歴史的背景である。越寒を試して『これが辛いのか』と疑問に感じ、SDを飲んで『うわっ、すっぺ!』と感じた世間一般ではなかった当方のインプレを改めて「どうして?」と見直して「ゲッペレス効果」と結論した。

捻くれ者の斜め下から観た「痛い感想」程度に捉えて頂ければ有難い。


# by sasatatsu | 2025-03-15 15:19 | 酒の味 | Comments(0)

ウロウロと毎日のローテーションを惰性で過ごした。気が付けば3月である。記事が書けない。現実にはキーボードを前に数本の原稿を作った。記事としてアップする気分では無い。「語る」と言う事への基本的な「猜疑心」が心の底から湧いてくるのだ。その昔D痛のCM製作者が良心の呵責に耐えきれず自殺した事件があった。D痛で働くには精神が真面目過ぎた。CMと言うのは嘘をあたかも真実であるが如く煽る商業活動である。CMを観る人は「そう言う物」であると納得しているとの暗黙の了解がある、というのが常識故に許される。

フウテンの寅がやる「啖呵売」の対象商品は偽物である。それを指摘して詐欺だと言えば、風情を理解できない無粋者と謗られよう。寅さんの啖呵売でお金を払う対象はそこに有る物としての製品では無い。啖呵売という芸に銭を払うのである。現代マスコミ社会におけるCMは啖呵売の延長に有ると理解すべきである。端的に実体の薄い虚像が前提と理解する。CMリテラシィとでも言うべきか。

そこで地酒の「語り」についてのリテラシィを考えた。大層な言い方だが要は使う単語を検証しようである。

地酒のCMではないが麦酒のCMで30年以上続くビール業界のゲッペレスと秘かに呟いている。昨夜は「辛口 生」とTVでやっていた。

先ず、「辛口」について。アサヒスーパードライ(SDと略)は1987317日に販売開始と記録にある。40年も前である。現在では「辛口」と言う表現は肯定的に取られる様になった(これがゲッペルス効果である)が元々の使われ方はどちらかと言えば否定的な傾向で使われた。『あの人は辛口だ』と言う表現には裏に辛辣、容赦なしというニュアンスを感じる。少なくとも安心、心地よさとは相容れない。この様な単語が「食品」の感応表示として肯定的に広まったのは何故なのか。「辛口」というお呪いから自由になれるかもしれない。この記述部分で当方の辛口に対する価値観が見えてしまった。酒小売は製品の出来不出来は言えても好き嫌いを言ってはいけない。ではあるが麦酒SDについては麦酒として風合いにバランスを欠いて「不出来」であろうと感応し、嫌いである。

辛口を演出する為の風合いで、味に酸味が多い(エビスの味に慣れるとSDは明確に酸っぱい)。アル分も一般的麦酒より高めである。日本酒の甘辛分布図に当て嵌めると酒度酸度共に高い方にプロットされ、傾向としての「辛口」の設計である。更にCM上の演出も考えてある。麦酒は特有のほろ苦さが「命」と個人的には思う(と言うのは麦酒のほろ苦さを好まない傾向が見えるのだ)。麦酒を容器から器(グラス、ジョッキ)に移す際泡が出る。苦み成分が泡に移り本体たる液体から抜け出す。正しい麦酒の呑み方は飲用容器に移し泡を作るにある。ところがSDのCMの映像の多くは缶から直接飲むスタイルが多い。炭酸の直接説的な刺激と同時に苦みが走る。この段階で「爽快、辛口」いっちょ上がり。(ああソウカイ)酒質の設計からCMの演出までゲッペルス顔負けである。嘘も百回言えば真実になるのか。知らんけど。騙されたは言い過ぎだが刷り込み効果は大だろう。「辛口」がもつ人為性と言うか「ヤラセ」振りが良く判るのだが

ゲッペルス効果が出る為にはそれなりの背景があった事を忘れてはいけない。

今は昔の事だが、清酒業界に「淡麗辛口」という言葉が生まれたのは1968年の読売の記事だとか「酒」編集長の佐々木久子女史の評論とか作家の開高健のエッセイとか諸説ある。秋田へ流れてデモシカ酒屋になった。当時越寒の空瓶に千円の価格が付いた記憶がある。淡麗辛口の越後酒の象徴が「越寒」程度の認識だった。当時の秋田では珍しく県外酒を置く居酒屋で「越寒」を。当時は全くの素人だったが『えっ、これが辛いのか。』と思った事は今でも思い出す。では何故1968年頃に「淡麗辛口」と評されたのか。話題が深みに入り込んだようだが、この話題は端折ってはいけない。一旦ここで止めて、続ける。


# by sasatatsu | 2025-03-13 18:05 | 酒の味 | Comments(0)

とんでもない世の中だ

こんな事を書けば石が飛んでくるだろう。散々ネット上で意見が飛び交う中居と件の「女子アナ」問題につき思う事である。ちなみに「女性アナウンサー」を「女子アナ」と表示する段階で立ち位置が明確になる。フジTVにおける「女子アナ」文化の始まりにして同呼称のオリジンはフジTVが国営放送からヘッドハンティングした頼近キャサリン美津子からではなかろうか。そして彼女は程なくして鹿内性になる。鹿内ってのはフジTVの創業家の息子だ。自社物件の「お手付き」はここから始まる。ちなみに頼近女史がフジTVの「正社員女子アナ」第一号らしい。フジTVと言う所は「そういう所」である。就職に当り事前のリサーチで直ぐ判る事である。さらにこの国のTV界における「女子アナ」の存在はアメリカや西欧における「アンカー」的存在では無く「社員ゲーノージン」である事もTV番組を観察すれば判る。そう言う物である事を知らなかったとすればイノセントである。中居との間に刑事罰相当の事例が有ったのなら民事(賠償による手打ち)とは別に刑事で立件が筋である。セカンドレイプの恐れがある、人権保護の要請があると言いながらもフォトエッセイとかを出版、其の他諸々の所作を見聞きするに素直に「理解」する気分にはならない。

この事件の本質的問題点は、日本のTV・ラジオの内容においてジャーナリズム報道と芸能関連とに分離されていない事。報道機関全体に相互監視機能が作用せず、権力機構の監視以前に自分たちが「なぁなぁ」で慣れあっている事にある。

芸能文化と水は低きへ流れるのが一般法則である。一部の優秀な「芸」が氾濫して大洪水になるのを止めている。低次元の自己実現の一環としての自由を権力が規制すれば他の「自由」の規制に発展する事は歴史が教える。「おもしろくなければテレビじゃない」の行きついた所が現在である。「面白い」は高尚なそれから低俗な物までそれこそダイバーシティである。ただし、その発露においてTOPが求められる。常識の範囲と言う。千名近い従業員が居ながらこの問題が発生するまでフジTVでは労働組合員が80名だったとか。幹部も患部だが従業員もそれなりに上級国民意識なのであろう。正直言って同情の念は持たない。

この国の報道機関に相互監視機能が無い事に問題があると書いた。決してTVや新聞は公表しない事がある。クロスオーナーシップと言う。新聞社、TV局、ラジオ局それぞれに特定資本が入って傘下に入れる事である。産経新聞の下フジメディアホールディングスと言う持ち株会社の傘下にフジTV文化放送等を持つ。読売新聞の下にニッポン放送、読売テレビの系列等。お互いに同じ脛を持つ故、業界にとって都合の悪い事件は「報道しない自由」を行使して無視する。

ジャニーズ問題はイギリスBBCがすっぱ抜いて白日の下。中居問題は系列外週刊誌のすっぱ抜きが原因だが文春のジャニーズ裁判報道は報道しない自由が作用したが中居問題はSNSで炎上、隠し切れなくなった。クロスオーナーシップの致命的問題点は報道スクラムを組んで「報道しない自由」を行使する所にある。

報道の自由があれば報道しない自由もある。言論の自由の一環である「編集権の行使」である。問題はこの自由を恣意的に使える事、その事につき他所の報道機関がお仲間談合で報道しない事にある。何故問題なのか。新聞が気に入らなかれば買わなければよい。しかしTVはスポンサーが一斉に逃げない限り(フジTVのAC広告だ)民意の反映が難しい。民意の反映がTV報道に必須要件である事はあまり主張されない。電波と言う物は国民共有の限られた資源である。本来その使用権は公共競売で落札させるのが筋である。或る論文によればTV電波使用料を競売に掛ければ今よりも2兆円多く国庫に入ると書いてある。現行消費税の1/10位である。TV局の職員(労働者と呼びたくない)が高給取りな背景には国民の財産から結構な金額をかすめ取っていると考える事も出来る。

言論の自由の一翼を担う報道の自由は民主主義が健全に働く為には必須の権利である。権利の上に胡坐をかく者は守られない。とも言うのであるが。打つ手が無い。今回の様にフジTVのスポンサー企業が一斉に手を引いても株価は上がる。フジTVがつぶれても母体の企業体は生き残れる。

トンデモな時代になった物だ。      僕は季節性鬱病なのだろう。


# by sasatatsu | 2025-02-14 19:29 | いいたい放題 | Comments(0)

浦里酒造について 続き

浦里酒造(霧筑波・浦里)についての続きである。

南部流名杜氏の佐々木圭八氏の後を次期蔵元の知可良が継いで連続して全国新酒鑑評会の金賞受賞である。回数は5回か6回である。手元の記録では20232024と全国の「金」その他も各種公的鑑評会で目覚しい受賞歴である。

試験場が(独法)酒類総研となり北区滝野川から東広島へ移転した頃、全国新酒鑑評会の開催方法が大きく変わった。ぶっちゃけて言えば、審査料(16200円?)を払えば出品できる。そしてその中の約1/4が金賞酒として入賞するのが現実である。詳しいデータは持ち合わせないが肌感覚?では滝野川時代に比べて東広島になってからは「金」の重みが減った。審査の傾向と対策に沿って当たり前且つ丁寧に醸せば「金」は遠くない。作り手側の検査分析技術の向上、醸造理論の確立が安全に高品質を担保、審査側も酸度や香り成分で感応にぶれが出ない様に工夫する等、時の運まかせ的要素が排除された。

それなりの経験を持つ蔵なら正しく「傾向と対策」に沿えば「全国の金」は難しい目標ではない。酵母にカプエチ優勢なそれ、代表的なのはM310(スーパー明利)や協会1801号を使い、原料米は山田錦で40%~35%の精米歩合、速醸モトでアル添本醸造。又はこれに準じたのが一般的な「傾向と対策」の中身である。

これに対し当方が見たデータで20232024の浦里の出品は速醸もとであるが小川酵母の純米造りである。鑑評会の出品酒規格としては極て例外的である。

レーシングエンジンで例えれば、吸気がスーパーチャージャーのDOHCが普通の世界に自然吸気のOHVでレースに臨む程度には「無謀」である。

エンジンは機械の世界であるが清酒鑑評会は感応の世界である。言い換えれば芸術性を競う。「OHV」でも総合的にバランスが取れていれば勝てる。

杜氏歴6年程の「新人」にしてバランス勝負で2年連続の成功は見事である。

小川酵母で純米造りの出品が「一見無謀」とはどういう事か。

純米造りでモロミを搾る時本来あった香味が酒粕の方に移ってしまい清酒部分の香味が上槽以前に比して薄くなる現象が良く起こる。これをして蔵人は「粕と共に去りぬ」なんて洒落る。何故粕に移ってしまうのかの科学的根拠は知らない。しかし、アル添すると香味成分が液体の方に移り易い理屈は判る。香味成分は多くがエステル化合物である。アルコールとの親和性が高い。アル添により粕から離れ清酒部分に入って来る。加えて凝縮されて濃くなった味成分が添加アルコールで延ばされて判り易くなる。原酒に加水すると香りも味もはっきりする現象と同じである。県や税務局単位の鑑評会は吟醸の部と純米の部に分けられた物が多い。アル添と純米を同じ土俵で比べさせる不都合が周知されているのだろう。「美味しんぼ」の影響かともすればアル添を純米の「下」に見下す風潮を体験するが両者ともそれなりの利点があり、等価値で臨む姿勢が求められる。

次に小川酵母で出品につき考える。協会酵母の誕生の背景を調べると、その時代の鑑評会で優秀と認められたモロミから分離培養される。協会酵母はそれぞれが登録された時代背景を背負っていると言える。小川酵母を元株とするK-10号は明利酒類で分離されたのが1952(S27)年、1958年に明利から販売。1977(S52)年に醸造協会から10号酵母として頒布される。分離培養から協会登録頒布まで25年も経ているが理由は知らない。1958年に明利から販売された事実が時代背景を探る手掛かりである。小川酵母の特徴は低酸、高香気と言われる。

まぁ優秀な吟醸酵母なら高香気は当然だ。みそは低酸である。解説では純米酒に向く等とある。ついこの前まで鑑評会の出品基準に酸度1.0以上という規定があった。裏を読めば必要以上に酸を落とした「亡酸」酒の弊害があった。純米酒と言う名称が出始めた頃(当方が中野在住の頃)今から40年も前である。流行に乗って「純米酒」なる酒を買って飲んだ。余りにえぐい酸に不味いと言う記憶がある。現在では「綺麗な酸」等と言って酸味の存在とその性質を積極的に評価するがついこのあいだまで酸は控え目の方が好ましかった。小川酵母が注目された背景である。

金賞獲得の効率を言えば極めて非効率的な組み合わせの「小川酵母で純米造り」で出品する姿に浦里酒造(霧筑波・浦里)の清々しさを感じる。

蔵元が自分ちの酒をして「引き算の美学」という。禅の世界か。

浦里酒造について 続き_c0155956_18582208.jpg


# by sasatatsu | 2025-02-13 19:02 | Comments(0)